評価☆☆☆☆★(4.5)
ゴールドマン・サックスの創業から1999年の株式公開までの歴史がまとめられた一冊です。
この種の社史(歴史物全般)の面白い所は、各時代のトップから次のトップへと経営のバトンが渡っていく過程に時代の流れや、重みみたいなものが感じられる所ではないでしょうか?また何故その人物を選んだのか、彼らは何をしたか?が詳細に書かれている辺り、流石に内部の人間が書いただけのことはあります。
外資に対する拝金主義的イメージと違った
”社風”が感じられる一冊です。
多少綺麗に書かれ過ぎてる気もしますが、そこはホラ、身内が悪く書くわけないだろって・・・
怖いお兄さん (メ▼▼)=○(/_x)/ 管理人
ただ終盤に拝金主義の陰がみられるような、ないような・・・
本編より、・投資銀行が新聞に載せる告知広告は、墓石のように見えるところから、「墓石広告」(ツームストーン)と呼ばれる。
1869年、ドイツ移民で創業者のマーカス・ゴールドマンが行商で蓄えた資金を元にニューヨークで借用証書のブローカー業を始めたところから始まる。
マーカスは皮革商人などを訪ねて譲渡性のある約束手形を買い上げ、一定額を割り引いて現金を渡す今日のCP(コマーシャル・ペーバー)にあたる商売を行った。
・サム・サックスと共に、父マーカス・ゴールドマンの跡を継いだ、
ヘンリー・ゴールドマンが引受という新たな事業を導入して会社を投資銀行に変身させた。
・急成長を始めた小売業に目を向けた。
このときまで、鉄道会社や製鉄会社などの大半の証券が、
会社の有形資産価値で評価されて市場で売り出しされていた。ヘンリー・ゴールドマンは、小売業においては、在庫回転率、すなわちどれだけ早く現金を生み出す能力があるかが債務返済能力を決め、利益を生み出すものであり、有形資産ではないと主張。
彼は利潤を生み出す能力で会社を評価する概念、すなわち株価収益率(PER)を発案した。この革新によって小売業を一般投資家に売り込む事に成功した。
・しかし、ヘンリー・ゴールドマンは、大一次大戦中にドイツを支持し、会社の評判を落とし、会社を去った。ゴールドマン家とサックス家の交流断絶。
・ヘンリー・ゴールドマンが去った後、引受業務の新たなパートナーとして、ハーバード大学出身の当時人気の経済評論家、
ワディル・キャッチングスが選ばれた。
キャッチングスはパートナーたちの同意をとりつけて、会社型投資信託「ゴールドマン・サックス・トレーディング・コーポレーション(GSTC)」を設立した。
この会社の一定割合(10%?)をゴールドマン・サックスは保有する。
キャッチングスはGSTCが一定割合を保有数する同様の投信次々と設立し、最終的に資本金2000万ドルのゴールドマン・サックスは総計5億ドル価値の会社のコントロールを得た
キャッチングスはこれらの投資信託から引受手数料。株価の値上がり益、GSTCが大株主になった会社から投資銀行業務や証券売買注文を当てにしていた。
1929年10月に株の大暴落が発生すると、GSTCの株価は最高値326ドルが1.75ドルにまで下がった。中には株価が一定価格まで下落すると買い増す条項がついたものがあり、損は加速度的に増加し、買い増し資金確保ための所有株の売却が、株価を更に押し下げる悪循環になった(
こうしてGTSCは20世紀最大の証券界の惨事に)。
会社の資本は1936年には500万ドルに減少していた。30年前の資本が450万であったことから大きな痛手だった。資本が1000万を超えたのは1950年代半ばのことであった。最終的にGTSCを、破綻企業の買取者へ売却した時、
株主は100ドルの投資に対して8ドルを取り戻すに終わった。・この苦境からゴールドマン・サックスを蘇らせたのは、中学を中退し、掃除人の手助けに雇われた
シドニー・ワインバーグであった。
彼は自分の関係する会社の製品以外は使わないと固く決めていた。 「金!いつでも入ってくるんだが、あまり意味のあるものじゃないね」シドニー・ワインバーグは長い時間を掛けGEやフォード、P&Gなどのトップと親交を深め、数十社の取締役を務め、アメリカのトップ企業を顧客に抱えることになった。
1930年代から40年代はウォール街は閑散。
次代を担うことになる、
ジョン・ホワイトヘッド、ガス・レビーがこの時期に入社した。
トレーダーとして雇われた
ガス・レビーは、時をおかず裁定部門を作り出し、投資銀行部門がぱっとしない間の稼ぎ頭となった。
彼はアシスタントだった
ボブ・ルービンと共に、鉄道債権の価値を、正しく評価し、ウォール街で裁定業者としての地位を確立した。
彼は実力(つまり稼ぐ力で)シドニー・ワインバーグの後を継いだ。
ガス・レビー亡き後を継いだのは、
ジョン・ホワイトヘッド(シドニー・ワインバーグを補佐し、投資銀行部門の営業部隊を設立、指揮した人物)と
ジョン・L・ワインバーグ(シドニー・ワインバーグの息子)の二人が共同経営者となった。
ここで管理人のモチベーションが下がる(((((;゚Д゚))))マテジョン・ホワイトヘッドがレーガン政権入りで去った後、
スティーブ・フリードマンとボブ・ルービンが重要な役割を果たすようになった。
フリードマンはM&A分野、敵対的買収の標的になる企業を防衛するビジネスを作り出した(当時のシェアは50%、本書出版時も首位)。
M&Aは、それ自体大きく利の乗るビジネスであったが、経営者たちと直に接することによって新規の案件獲得が進んだ(LBO、高利回り債、自社株買い・・・)
1981年11月、
商品取引を扱う小規模同族会社、J・アロン買収。1970年代後半インフレの進行により、インフレで目減りしない、インフレと共に値が上がる市場に参入するため。
1989年、マーク・ウィンケルマンらの活躍により、
債権部門の改革により、ジャンクボンド、モーゲージ担保証券、自己勘定取引など新ビジネスの創出により、会社全体の利益の40%近くを稼ぐようになった
(新ビジネスの創出はGS独自のものか、他社の後追いかは不明)。
1987年2月12日、リスク裁定部門のトップ、海外株式の統括者、ロバート・フリーマンがインサイダー容疑で逮捕、信用失墜。
1980年代には、顧客の投資顧問業やデリバティブの参入により、GSとの利害の対立が発生(GE、AIG・・・)。
1986年、当時のイギリスのメディア王、ロバート・マックスウェルと関係を持つ、後に違法行為が明らかになり、信用に傷をつけ訴訟に巻き込まれる。
1990年代に入り、報酬の大きさからヘッジファンドに人材流出、自社でヘッジファンドを持つ方向へ。
1992年9月、イングランド銀行は政治的理由からERM(欧州為替メカニズム)の基準レートに拘り、景気後退期の最中に通貨を維持するために金利引き上げ等、通貨維持に走った結果、GSやソロスを含む投機筋の売りを浴び、巨額の損失出してERMから離脱した。
トレーダーたちが一発勝負やレミングのように同調するようになった結果、リスクは増大し、利益の質は悪化。
1994年、FRBはインフレを懸念して0.5%金利を引き上げた(その後6回を行われた利上げの初回)、業界全体のトレーダーが膨らませ過ぎたトレーディング資金の対応が遅れ、世界中の債券市場が大暴落。
かなり省略して、
1994年を通して無限責任を負うパートナー制の下巨額の損失を度々出し、前年比で利益を大きく削った結果、会社を去るものが続出した。
新CEOのコーザインとポールソンの下、会社の建て直しには成功するのものの、不調時とわれる資本構成の問題とライバル各社の巨大化に対し、
非公開企業で株式を持たないGSでは、割安な買収の機会が出てきても、公開株を使って買収する手立てがなく(5000億ドル以上の資金が必要な案件で遅れを取るようになった)。
結果、1999年5月4日にニューヨーク証券取引所で株式公開された。こうして130年近く続いたパートナー制に別れを告げ、公開企業となった。
各登場人物や海外進出に関する部分、競争相手の盛衰については、省略、1ページが上下二段構成で600ページほどか、読み物としては面白い本なので興味のある方は、読んで見ては?
(一応読んだ時につまらなくなり過ぎないように、過剰抜粋にには気をつけました。
ジョン・L・ワインバーグが社員を説得した場面や、シドニー・ワインバーグに関する逸話など面白い話はいろいろあります)。
GSが時代時代の環境の変化に如何に対応したか、どのように現在の形ができあがったのかなど、個人的に知りたかった、まとめておきたかったことなのでまあこんなものでしょう。